特集

「地域活性化を促進するインフラを作りたい」
以倉敬之さん(イロトリ代表取締役)

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■高校中退後、吉本のライブハウスへ

以倉敬之さん
―生まれはどちらですか?

大阪府の南方、泉南市という所です。中学までは泉南市にいて、高校は岸和田だったんですよ。だんじりの街だったんですけど、体育会系のノリにはあまり馴染めず、横で眺めているのが好きでした。

高校は、2年になってすぐのころに中退しました。音楽でプロを目指そうと思いまして…。勉学に興味がなくなった時点で、このまま続けるのは先生や親に申し訳ないと。今思うと音楽と出会ってからですね、人生がズレてきたのは。

X JAPANとかGLAYとかが特に好きで、Xを聞いてオーケストラって素敵だなと思って、高校1年の時にはオーケストラに入ってコントラバスをやってましたね。同時期にロックバンドではエレキベースをしていたので、オーケストラとバンドのコラボレーションもしたりして、あれは面白かったですね。異ジャンル融合の化学変化が面白いと気付いたのは、このころかも知れないです。

―高校を辞めて、就職を?

高校在学中は、音大とか芸大に入りたかったんですが、高校1年の終わりぐらいに初めて作曲をしたんですよ。それで「あ、簡単に作れるやん」と思ったんですよ。音大に入るための勉強って、数字ばっかりの数学の教科書みたいな音楽理論の教本があって、「これはだめ」って正解不正解があるんですね。

でも音楽ってもっと自由なものなんじゃないかなあと。独学でも作れるんだと気付いて。むしろ現場で働いた方がためになると思ったんですね。

それでライブハウスで働きたいと思って。いろんなライブハウスに面接に行ったんですけど、唯一採用してくれたのが吉本の「マザーホール」っていうライブハウスでした。

―そのホールはミナミにあるんですか?

もうつぶれましたけど、都心では珍しいキャパ2,000人で大型の、なんば南海通りにありました。

それまでは、難波とかには行ったこともない田舎者だったので、まあいろんな人が混沌としていて、なんだか異世界に来たようで怖かったですね。慣れてくるにつれ、その混沌とした人間くささが好きになるのですが。

―何年ぐらい働いていたんですか?

3年ぐらいですね。良い上司、仲間、職場に恵まれて、今の自分の基本を形成した、基調な3年間でした。

ハコをレンタルするお客様のイベントを一緒に運営するハコ側から、自分も場所や形式にとらわれずに思いを発信したいと思い始めて、会社の解散を機に退職しました。

■物語や世界観を、異ジャンルで表現したい

とんぼりワッショイ
―それがハタチのころですか?

19歳で会社を辞めて、初めてイベントをやったのがハタチの誕生日でしたね。お菓子を食べることのできる音楽イベントを開催しました。

―もともとイベントをやりたかった?

「1つの物語や世界観を、時間軸や視点を変えて異ジャンルで表現する」ってことがしたいんです。

例えば「電車男」ってあったじゃないですか。ネットで流行ったから書籍化して、映画化してドラマ化して舞台化したんですよね。それって本当は最初から、ネットでも書籍でも映画でもドラマでも舞台でも展開するって前提があったら、もっと面白い作り方があるんじゃないかと思うんですよ。物語が流行ったから他の媒体に作り変えるんじゃなくて、もともと一つの世界観があって、例えば映画とドラマは主人公が違って、書籍では時間軸自体が違ったりとか。広告やリアルにも物語を展開したりとか。

そして、個々が独立しているんだけど、全部体験した時に、全部がガッとつながる感じ。音楽とかイベントとかも、作品として突き詰めると、1つの物語とか世界観になるんじゃないかって。

まあ、そんなことをしたかったんですけど、人のつながりも、自分の能力も、お金もすべてが足りなくて、全部少しずつ構築していこうと思って。2006年4月には「春のいろは」っていう、「和」をコンセプトにした、演劇、映像、美術、雅楽、日本舞踊のコラボレーションイベントをしたりしました。

道頓堀で気軽に浴衣を楽しむイベント「ゆかたde夏祭り」開催

■アートイベント「とんぼりワッショイ」

とんぼりワッショイ
―「とんぼりワッショイ」も、そのころから始まった?

「とんぼりワッショイ」というアートイベントは、第1回を2006年の5月に開催しました。さまざまなジャンルの表現者を、作品というより「祭」イベントとして集めたいと思いまして。道頓堀の「とんぼりリバーウォーク」をフラッと歩いていたら、「こんな都心に、いろんなアーティストの表現の場が生まれたら面白いんじゃないかな」って思って、それでやってみたのが始まりです。

知り合いに声を掛けていったら、みんな「面白いね」って話になって。口コミでアーティストが集まって。

―「とんぼりワッショイ」は取材で伺いました。いろいろな表現者が店を出してましたね。

アートフリーマーケットですね。最近は大きくなってきましたけど、最初は22ブースぐらいでした。今はスタッフも集まり、実行委員会が運営していますが、第1回はステージPAも自分でやろうと思っていたぐらいで。でも全体を見ないといけないですし、PAまで手が回るわけもなく、たまたまその時に観客として来ていた知り合いがPAで、「すまん、やってくれ」って無理やりお願いして。もう、こてんぱんに怒られましたね。でもそれが縁で、2回、3回、4回って、舞台は彼がやってくれて。人のつながりで支えられていますね。

―今も以倉さんが中心でやってるんですか?

第4回以降は、僕は地元との調整だけで、運営は実行委員会に任せています。表現者が、自分たちの表現の場ぐらい自分たちで作ろうと始まったイベントなので、イベント参加者の中から実行委員会に入る者がいて、また卒業する者がいて、新鮮な風でコロコロ転がって続いていくイベントになればいいと思っています。高校生のころから今も変わらないんですけど、みんなと一緒にワーッと盛り上がるのは苦手で、仕組みを整えて、みんなが楽しんでいるのを眺めているのが好きなんです。

―そういう活動が縁で、地元の人たちとも知り合った?

そうですね。ミナミを、大阪を盛り上げたいという、熱い思いを持った方たちと出会い、イベントももっと地域と密着したものを目指そうと思いました。NPO(※特定非営利活動法人irotori芸術文化協会)を設立したのは、2006年12月ですね。「とんぼりワッショイ」の第2回が終わったころ。NPO設立の申請自体は夏ごろからやってたんですけど…。

―会社の立上げは2007年ですね。

2007年の5月です(※株式会社イロトリ)。出会った人と話をして、その人のやりたいこと、思いを聞き出して、それを形にする。基本的にはWEBやグラフィックの制作会社ですね。

道頓堀でアートイベント-45ブースでオリジナル作品を展示・販売

■地域活性化を促進するインフラ作り


―今後の活動について教えてもらえませんか。

新しい会社(※株式会社イロトリGL)の主な事業は、地域活性化を促進するインフラ作りです。イベント自体、続けることはとても大切なんですけど、それよりもイベントをしやすい「土台」を作ることが必要だと思い始めて。

以倉敬之さんその土台が何かっていうと「媒体を作る」ってことかなと。街頭ビジョンみたいなものかもしれないし、商店街とかにガーっとディスプレーを設置して無線LANでつなぐとかかもしれないし、WEBかもしれないですけど。

そしてそれなら「媒体を作りやすいインフラ」を作ろうと。僕らって地域活性化とか街づくりをしてるじゃないですか。でも「この地域でしか成り立たないもの」じゃなくて、例えば九州に持っていっても、四国に持っていっても成り立つ仕組みを作ることが大事なんじゃないかなと。その地域の生活者のニーズを吸い上げて、それをデータベース化して、それを反映していく仕組み作り。そして、そういったミクロの地域同士がつながって、マクロの地域を形成する仕組みを作る必要があるのかなと。


―例えばどんな仕組みですか?

例えば、情報の整理と統一ですね。いろんな店舗とか地域の情報を統一して、地域自体が媒体価値を高めていきましょうって。外向きにはポータルサイト、内側はコミュニケーションサイトみたいな仕組みを、横の地域軸と縦の業種軸、上からも下からも同時に紡いでいくことが大切ですね。街づくりに熱心なNPO同士や、NPOと市民をつないだり、寄付をしやすい仕組みなんかも作りたいですね。

■以倉敬之さんプロフィール

1985年生まれ。大阪府出身。
高校中退後、吉本興業の子会社であるヨシモトライブミュージックエージェンシーに3年間勤務。会社解散を機に退職。
その後、アートイベント「とんぼりワッショイ」を道頓堀とんぼりリバーウォークで開催するなど、広域なんば圏で行われるさまざまなイベントに携わる。
2006年、NPO法人irotori芸術文化協会を設立し会長に就任。2007年、株式会社イロトリを設立し代表取締役に就任。2008年、株式会社イロトリGLを設立し代表取締役に就任。同年、NPO法人道頓堀水辺地権者会の理事・事務局長にも就任。

株式会社イロトリ
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